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山元町立中浜小学校

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                                2014年10月10日  日本経済新聞より
上記の新聞記事は今年の10月に所用で亘理に帰省したときのもの。中浜小学校についてはそのうち取り上げようと思っていたが、いろいろ忙しく年末になってしまった。

今年の8月に帰省した際、車で磯浜に行った帰りに中浜小学校の脇を通過しようとしたら、校舎の後ろに大型バスが止まって人がぞろぞろ降りてくるところだった。なんだろうなとそちらに車を回したら、大学生達が中心になった関西からの来たボランティアグループの一行だった。地元の役場の方がガイドをしており、学生達を案内していたので、私もその一向に加えてもらい周囲や建物の中の今の様子、そして津波の時の状況を、くわしくうかがうことができた。

 山元町立中浜小学校は下の地図(yahoo衛星写真 津波前)でもわかるように、県道38号相馬亘理線とJR常磐線が並走しているそのちょうど脇に位置している。海岸線から約400mで、近くには民家、海岸線には堤防、防風林もある。福島県境に近いこの辺は海岸平野に西側の丘陵部が迫ってきて、平野がだんだん狭くなってきているところ。左の方に緑の丘陵が見えているのはそのため。
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                                        yahoooマップ(津波前)より

このようなところに右側(東側)の太平洋から巨大津波が押し寄せてきた。

津波後の写真が下↓
コンクリートでできた小学校の建物以外すべて流されてしまっていることがわかる。
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    県道38号から見る中浜小学校
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                                           2014.8.8撮影

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     時間がとまったような教室                      2014.8.8撮影

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                          津波の高度を示す矢印  2014.8.8撮影

アップすると↓
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                                           2014.8.8撮影

津波襲来当時、中浜小学校には全校生徒の59名、先生14名、避難してきた保護者や地域の方を含め90名がいたとのこと。近くの避難所までは徒歩約20分、津波到達まで間に合わないと考えた校長が避難先に思い付いたのは、普段は使われていない屋根裏の倉庫だった。↓

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                                            2014.8.8撮影

    海までこんなに近い
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                                            2014.8.8撮影

その屋根裏の倉庫の階から東側を望む。防風林も何もなくなった先に見えるのは太平洋。これだけでも海に近い場所にあるとういことがわかる。

あの太平洋の海全体が盛り上がり、こちらに押し寄せてきた。ガイドの方によると、、3回目あたりの津波の高さがものすごく、もうこれはダメかなと思ったら、西側の山にぶつかって反ってきた波と干渉し合い、そのため勢いが削がれ、なんとか助かったのではとのお話。校舎の外壁に残された津波の到達高度を見ればわかるとおり、間一髪の出来事だったようだ。

この辺は先に書いたとおり丘陵部が海岸部に迫った地域であったためこのようなことが起きたと推測できる。つまり、校舎のあるところは地形的に戻り波が寄せる波と干渉し合う場所であったと、でもこれもタイミングの問題であって本当に奇跡的だったとしか思えない。

ただ、気になったことがあった。それはこの小学校の校舎の前ににこんな石碑が横たわっていたことだ。この石碑は今回の津波で倒され倒れたままだが。過去の津波の被害状況が刻まれていた。
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                                            2014.8.8撮影

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                                            2014.8.8撮影
この石碑は当時の朝日新聞社に寄付された見舞金が罹災した町村へ分配され、その残金から作られたようだ。  

2つの津波の被害状況が刻まれている。ひとつは明治9年6月26日午後9時半とあるのでこれは三陸津波のことだ。もうひとつ刻まれているのは昭和8年3月3日午前4時とあるのでこれは昭和三陸津波のことだ。波の高さも刻まれており、明治三陸津波時は6尺(約182㎝)昭和三陸津波時は7尺2寸(約2m18㎝)と読める。つまり、かつてこの地にこの石碑に刻まれている規模の津波が押し寄せていたということだ。

気になったということは、こういうことがあったという事実を私はこの石碑を見るまで全く知らなかったこと。昭和三陸津波のことは祖母から聞いた記憶があるが、場所は荒浜の阿武隈川の河口での出来事であって、具体的な津波の高さまでは聞かされていなかった。私の父も亘理町の歴史には相当詳しかった方だが、父からも聞かされた憶えはない。

そして、記憶にあるのは津波は三陸海岸のようなリアス式の海岸の地形なので波の高さが大きくなる、でも亘理のような平坦なまっすぐな海岸では、きても波の高さが大きくならないので大丈夫。そのような話が一般的だった。

この石碑は学校よりもっと海岸よりに建ててあったそうだ。せっかく先人がこのようなものを残して警鐘を鳴らしてくれていたのに、そのようなことを皆が忘れ、そしてその近くに小学校まで建ててしまっていた。

下の地形図は昭和44年発行のもの、中浜小学校は昭和39年創立なので、創立当時の様子がわかる。南の磯は磯浜だが、まだ港は造られておらず砂浜のままで、海岸線も昔のままであることがわかる。周囲の住居もまばらで創立当時は海を含め、広々とした風景が広がっていたろう。
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5                           万分の1地形図「角田」昭和44年発行


2006年NHK放送の「失敗は伝わらない」(検索すると出てきます)を思い出した。失敗はその直後は緊張状態が続くが、だんだん関心が無くなり、30年も過ぎてしまうと、ほぼ消えてしまうと・・・。

昭和8年に昭和三陸津波が起こり、この海岸に波高7尺2寸(約2m18㎝)の津波が押し寄せた。その教訓として、石碑が建てられた。それから約30年過ぎた昭和39年にその海岸線沿いに小学校が建てられた。この小学校で犠牲者が出なくて本当によかったと思う。

by 33orion33 | 2014-12-26 12:17  

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