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震災から4年目、亘理荒浜について考えてみた

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これは震災前のyahooの衛星写真である。この写真でみるとわかりやすいが荒浜地区は北の阿武隈川と汽水湖である南の鳥の海の間に突き出た半島部のようなところに位置している。この写真は震災前なので震災前の住居がどのような状態だったかもよくわかる。

赤い矢印のところが亘理町立荒浜小学校である。そこのグラウンドの南角の入り口付近に「阿武隈川船運と荒浜」とういう掲示板がでている。↓

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                                           2012年3月18日撮影
『江戸時代、荒浜は阿武隈川舟運で下した城米を、東回り航路の船で江戸へ積み出した地である。幕府の天領が阿武隈川の上流の信夫、安達郡(現福島県)にあったため、その地を貫流する阿武隈川の舟運を使いその河口に位置する荒浜まで運んだのだ。その米は御城米と呼ばれ、その米蔵が13棟この場所にあったということだ。明治になりそれら米蔵は取り壊されたが、敷地は周囲よりも一段と高いところにあったので洪水の際にも難を逃れることができるため、、小学校と、教員住宅に転用された』要約するとこのような内容だ。

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上の図(「大日本行程大繪図」 安政四年(1857) ↑ で示されているとおり、阿武隈川は大隈川と呼ばれていた。その河口にアラハマの文字が見える。
当時、荒浜は漁港というよりは 江戸への米の積み出し港として重要な役割を果たしていた。

実は私の祖母が明治18年(1885)にこの掲示板のある小学校敷地で生まれている。祖母の父は荒浜村の初代村長の齋藤定一である、米蔵の跡地でちょっとした高台であったため官舎もそこに置かれたのだろう。
(blog「丙午紀行を旅する 2011.4.10 亘理町荒浜」 2011/5/8)でも触れている箇所


下の図は昭和6年(1931)に発行された「昭和6年荒濱村統計一班」に付いていた地図

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荒浜地区を拡大すると、↓
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かつての米蔵があった阿武隈川の南岸に沿って家屋があることがわかる。そして荒浜の漁港は阿武隈川の河口港で、阿武隈川河口部の南岸が船着き場となっていた。写真下 ↓ そのため江戸時代以来、荒浜の屋並みは川沿いに沿って北向きであった。
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河口部は漁港に不向きな高い堤防があるし、河口は狭いし浅いし、舟の遭難も多かった。そのため荒浜の南に位置するの汽水湖である鳥の海に漁港建設が求められ、それらの工事が始まったのは昭和11年のことだった。

そのころの鳥の海は地図でもわかるとおり荒涼そのものの自然なたたずまいであったという。
また、地図にある鳥居崎は鳥居崎浜といって大畑浜と向かい合って仙台藩の塩田があったところだ、鳥の海はもっと西の方まで広がっていたはずだ。

次は新庁舎落成記念 「わたり」昭和38年4月発行より
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この冊子に織り込まれている地図より荒浜地区を拡大。
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                          昭和38年の荒浜地区を拡大した図。

鳥の海の北側の部分が直線的になっており、漁港造りが進んでいることがわかる。戦争で一時頓挫した鳥の海に漁港を造る整備計画は昭和21年から始まり、昭和50年頃まで続く。

下は昭和38年頃の荒浜の航空写真。 ↓ この写真で見ても、家屋は右側の阿武隈川の南岸に沿っており、他の場所にはほとんど家屋が見あたらない。
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図と写真で荒浜の江戸時代後期から昭和38年まで見てきたが、人々がどこに住んでいたかを考えると、ほぼ阿武隈川の河口の南岸部にほとんどの住居があったことがわかる。
当時私は小学校低学年で、夏は親に連れられ荒浜海岸に海水浴に来ていたが、中学校近くのバス停から海岸部までは松林以外に何もない風景が広がっていたような記憶がある。

 図と写真でこのようなことを述べてきたのは、震災から約1ヶ月後の4月9日、10日に荒浜を訪れたとき、海岸部や鳥の海付近の家屋はほとんど見る影もなく流されてしまっているのに、荒浜小学校付近から川口神社にかけての家屋は海水に浸かり破損はしているものの比較的多くの家屋が残されていたからだ。その時、昔から人の住んでいるところはちがうものだと思ったものだ。

江戸時代より住居があったというところはそこは比較的自然災害に遭遇しないところだから長い間人が住み続けてきのだろう。米蔵がそこに置かれたという理由もそこに住む人たちに蓄えられた知恵があったからだと想像できる。

こんなことを書いてきたのは、私はこの荒浜の出来事が日本の沿岸部の地域の縮図のような気がしてならないからだ。日本の戦後高度成長時代、日本の海岸部に連なる湿地帯や海岸部のほとんどが埋め立てられ、元湿地帯には新田開発がなされ、工場も誘致され、海岸部には港湾、工場、エネルギー貯蔵庫等、が造られ、そしてかつて人の住まないような沿岸部にまで宅地は造成されていった。日本の海に面するところは大体そうなっているはずだ。

高度成長時代、そして今まで、自然災害等について考慮がなされたかどうか。このような津波が来るかもしれないことを想定していたかどうか。
(これと関連したこのブログの中の記事「ある墓標」)

岩手県の三陸海岸のようなリアス式海岸でなくてもこのような規模の津波が来てしまえば沿岸部は相当な被害を受けてしまうことがわかってしまった。ということは、日本のほとんどの沿岸部にあてはまってしまう。そして今後東北以外でも大規模な地震が起こることが想定されている。

なにをいまさらといってもしょうがないかもしれないが、このような古い地図からもある程度の被害は予想できるはずだ。すくなくとも今後の対策のヒントにはなるはずだ。

このブログの2011年5月29日「歴史から学ぶこと-2」  同年7月10日「歴史から学ぶこと-3」を書いてからずっとこんなことを考えてきた。

by 33orion33 | 2015-03-09 20:30  

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