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地名の欺瞞 東武線「せんげん台」冠水

9月10日(木)は大雨のため関東を中心にあちこちで交通機関がマヒ。私の利用する東武線も「せんげん台駅」冠水のため早朝より運休、回復したのは午後5時過ぎ。そのため一日中自宅待機を余儀なくされたしまった。
テレビや流れてくるツイッターをずっと眺めていたが、せんげん台駅周辺で起こっていることを一番分かりやすく説明してあったのが次のツイッター。 文筆家の竹内正浩氏の投稿。 みんなも同じ思いをもったのだろう。RTも多く、画像ではベストツイートとなっていた。
「ひどく冠水した「せんげん台」は、「台」という名前とは裏腹に、後背湿地(図版参照。青緑の土地)。これはもはや地名詐欺です。対照的にせんげん台駅の隣の大袋駅は、川に囲まれた土地をすなおに表しています」 の文とともに次の図が添付。
地名の欺瞞 東武線「せんげん台」冠水_a0226133_178133.png

この図(治水地形分類図と思われるが)にちょっと付け足し分かりやすくすると。
地名の欺瞞 東武線「せんげん台」冠水_a0226133_179119.jpg

東西に走るのが東武スカイツリーライン白文字が「せんげん台駅」黒文字が「大袋駅」

大袋駅を囲んでいるカーブしている水色はかつて元荒川の蛇行していた跡、黄色い部分はの旧河川沿いに形成された自然堤防と呼ばれる地形。せんげん台が浸っている青緑いろの場所は後背湿地。自然堤防は河川が堆積させた土地で周囲より小高くなっており、古くから集落ができている場所(住所は袋山)。後背湿地はそれらの背後の低湿地をいう。普通の地図ではわからないが、このような地図だとかつての地形の様子がよくわかる。

この辺にずっと昔から住んでいる人からは「せんげん台付近は以前は広い水田地帯で、東武が周囲の土地を買い上げてススキが原になっていた頃も建設中のせんげん台の駅(1967年開業)からは富士山がよく見えたものだ」と以前聞いたことがある。

時は流れ、きれいに区画整理され 準急(現在の急行)が停車する「せんげん台」は順調に発展し、現在では周辺よりもずっと地価の高い地区となっている。

「せんげん台」という駅名は北側を流れる一級河川・新方川(にいがたがわ)の古称・俗称である「千間堀」(せんげんぼり)に由来する。もともとは湿地帯の田圃だったところが「~台」という名前になってしまった。駅名は「せんげん台」とひらがなで表記されるが住所は千間台~丁目と表記される。(住所も地名詐欺だ)

新しく造成された地区など「~台」、「~丘」と名付けられる場合が多い。それは高台の方が高級なイメージがあるのでそうなるのだろう。買う方はそういうところに惹きつけられる。住むところを考える時、よく古地図を参考にというが、そんなことをするひとはどれほどいるだろうか。かつて田んぼだったまで調べる人はいると思うが、上記のような図を手に入れ、大雨の時はここに水が集中してまで考えないだろう。土地開発会社としてはそのほうが都合がいいことなのだが。

このツイッターの発信者である竹内正浩氏は本当にグットタイミングで問題点を示してくれたと思う。もし日本国民の大部分が竹内氏のような知識があれば、災害国日本の災害もずいぶん減るのではないかと思う。つまり消費者がもっと利口になればということである。

本当は学校でこういうことを教えてくれればいいのだが。

# by 33orion33 | 2015-09-12 17:20  

震災より4年4ヶ月 定点観測地

2011年4月9日撮影した亘理町としっかり字が刻まれている広告塔の災害写真を柱にして定点観測を行い、その周辺の変遷を記録してきた。以下記録順に並べてみる。

「亘理町浜吉田地区定点観測2012/3/25」、「定点観測地点あたりはどれほどの津波が来たのか2012/4/14」、「亘理町浜吉田地区定点観測-22013/1/13」、「震災から3年5ヶ月 定点観測地2014/8/11」。

震災から4年以上経過し、その定点観測地の周辺で大きな変化が起きてきたようだ。

改めて場所を確認しておく。
震災より4年4ヶ月 定点観測地_a0226133_18583710.jpg

が定点観測地(海岸線から約1.2㎞) この地点はほとんど北緯38度線上に位置している。
南北に走る緑の線は「福島県道・宮城県道38号相馬亘理線」(現在県境付近で不通)
茶色の矢印が撮影の方向。

震災より4年4ヶ月 定点観測地_a0226133_13121719.jpg

                                             2015.1.2撮影
広告塔の後ろに2014年の夏にはなかった作業用の建造物が建っていた。

震災より4年4ヶ月 定点観測地_a0226133_13141298.jpg

角度を変えて見ると作業用建物                        2015/1/2撮影

震災より4年4ヶ月 定点観測地_a0226133_13152639.jpg

そして、近くにはこのような掲示板が                     2015/1/2撮影
いよいよこの辺も大規模な工事が始まりそうだ。

震災より4年4ヶ月 定点観測地_a0226133_13165767.jpg

地平線に白い線が①。これは海岸線の堤防               2015.3.27撮影

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海岸線には完璧な白い堤防ができあがっていた。           2015/3/27撮影

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今度は白い堤防は見えず、茶色の線が。②一体これは何だ?   2015.7.23撮影

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                                          2015/7/23撮影
近くに行ったら②は実は道路だった。作業員の方に聞いたら、この地に新しく道路を造り、それを県道38号線にするとのこと。

土盛りして高くしているのは、これも津波を防ぐため。この広告塔の背景は今後どんどん変わっていきそうだ。

# by 33orion33 | 2015-08-14 13:24  

2015年夏、亘理の田園風景

亘理の田園風景に関しては、「すべて思い出の風景に 田園風景」2011/8/15,「2012亘理の田園風景」2012/8/31、「2015年冬、亘理の田園風景」2015/2/4とこのブログで3回取り上げてきている、今回は4回目。

2011年の8月、津波の被害を受け全く稲作のできない状態になってしまった風景を見た時、これから一体どうなるのだろうかと思ったものだが、あれから4年の歳月がたち、「農山漁村地域復興基盤総合整備事業」も進み、田園風景はより大規模なものに甦っている。

撮影場所は、JR常磐線を跨ぐの跨線橋の道路の上、下の地図で赤丸の印の所。(海岸線から約3.8㎞地点)← ①、②は撮影を方角。地図は上が北なので、①は北西の亘理駅方面の風景で、②はだいたい西方の山側の風景。

2015年夏、亘理の田園風景_a0226133_22533028.jpg

①←の方向 4年間で風景はどようにの変遷したか。
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                                    2011年8月6日 撮影
2011年震災の年の夏、津波の被害を受け稲作はできず、荒れ放題。JR常磐線も不通で、線路(単線)は見えるものの草が茂り始めている。

2015年夏、亘理の田園風景_a0226133_22555810.jpg

                                   2012年8月11日 撮影
2012年8月、稲作はできるようになったが、JR常磐線は不通、夏草で覆われて線路は見えなくなってしまっている。

2015年夏、亘理の田園風景_a0226133_22571447.png

                    2015年1月3日撮影
2014年から始まったほ場整備事業(一枚1反の田んぼを一枚1町に広くする)が行われている。
常磐線は2013年3月16日より再開、浜吉田駅までだが。

2015年夏、亘理の田園風景_a0226133_22582990.jpg

                                        2015年7月23日撮影
そして2015年の夏、一枚一枚の田んぼは広くなっている。(2012年夏と比較するとよくわかる) 跨線橋の下を通過する浜吉田駅方面から亘理駅に向かう電車も撮ることができた。


次は← ②の風景の変遷

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                                     2011年8月6日 撮影
震災の年の荒涼とした風景。

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                                     2012年8月11日 撮影

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                                      2015年1月3日撮影
ほ場整備事業が進む。

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                                     2015年7月23日撮影
一枚一枚の田んぼが広くなっている。

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                                     2015年7月23日撮影
上の写真に写っている道路からの風景。こうやってみると、本当に広々とした田んぼに生まれ変わったことがわかる。

# by 33orion33 | 2015-08-05 23:14  

常磐自動車道を走るⅡ

7月22日~25日、常磐自動車道を利用して亘理に帰省。前回帰省した3月下旬は帰宅困難地域に指定されている富岡や浪江の様子を高速道路上からからぜひ眺めてみたかったので、3月1日に開通したばかりの常磐自動車道を利用した。今回の帰省でも常磐自動車道を利用したのは帰宅困難地域の夏場の様子もこの目で確かめたかったから。
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浪江付近(下り線) 2015/7/22/撮影
東北新幹線や東北縦貫等が通っている福島県中通りは東北地方であっても夏はけっこう暑い。常磐自動車道が通っている福島県浜通りはそれと比べれば海に面しているので比較的涼しい。といっても30℃は超えてくるのでほっておけば夏草は繁茂する。原発事故以来その夏が今年で4度目をむかえる。
 木々のすべてが緑で大地も夏草に覆われると、そこにたくさんの生物がうごめいていることが想像できる、それだけに人や大型家畜等を全く見ることができない風景は異常。

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浪江付近(上り線)   2015/7/25撮影
沿線には数多くの民家も見ることができる。その周辺の土地も厚い夏草で覆われている。事故以前は畑や田んぼがきれいに整地されていたと思われるが、もうどこが畑でどこが田んぼであったかもわからなくなってしまっている。

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南相馬鹿島SAにある 放射線モニター 2015/7/22撮影
今年の3月下旬より若干数値が下がっているが、それでも普通ではない値が示されている。

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浪江~富岡間(上り線)の放射線量   2015/7/25撮影
南相馬鹿島SAにある 放射線モニターで最高値(5.0)を出している場所がここだ。
常磐冨岡ICと浪江ICの間で⑤の観測点、3月下旬もこのポイントが最高値を示していた。

# by 33orion33 | 2015-08-01 20:34  

本当の防災とは

私は埼玉県南東部に住んでいるが、ちょっと車に乗ると水田地帯が広がっており、この時期になると夜はカエルの大合唱となる。その中で見事な屋敷林をもつ農家の庭先に変わったものが置いてあったので、写真を撮らせてもらった。

本当の防災とは_a0226133_2035193.jpg

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                                      上2枚 2015/5/17撮影

ごらんにような木製の舟である。海で潮干狩りのお客さんを浅瀬まで運んでいく時に使うような小さな木の船だ。今は置いてあるだけでほとんど朽ち果てているが、かつてこの辺は洪水が多く、その時の緊急用にこような木製の舟がつかわれたそうだ。他の農家も今でも持っているところがあるのではとのこと。


私は1984年(昭和59)よりこの地域に住んでいるが、大水の記憶はない。

下の図は「中川・綾瀬川流域浸水予想区域図」1:50.000 のハザードマップだ。20年ほど前、市役所の方からいただいたものだ。
本当の防災とは_a0226133_2038065.jpg


「土地の形成要因からみて浸水の可能性のある区域」が水色
「概ね、100年に1回程度起こる大雨で浸水が予想される区域」が水色
「浸水実績区域」(昭和33年の狩野川台風、昭和41年の台風4号、昭和57年の台風18号のどれかで実際に浸水した区域)が赤線と赤斜線で示されている。

私がこの地域に移ってきたのが昭和59年なので、地図に示されている昭和57年のこの辺の大水の様子は知らないが、改めてこの地図を眺めると、いく筋も川が流れ、この地域のほとんどが水色、赤の斜線で覆われていることがわかる。あたり一面洪水・浸水地帯だったのだ。

この辺で急激な宅地化が始まったのが昭和40年代以降だ、それまでは広々とした水田地帯に屋敷林が点在するのがこの辺の一般的な風景だったようだ。

 そのような時代、大雨の予想があると、あのような小舟があちこちで用意され、そして洪水のたびに実際に使われたのだろう。防災の用意がちゃんとできていたのだ。

そのような風景が失われ、小舟は消え去り、あるいは忘れ去られ、、宅地化が進みハザードマップができた。でも100年に一度と言われても、かつて洪水があったといわれててもなんかピントこない。ましてやこのような地図は不動産関係者は見てもらいたくないだろう。

朽ち果てていても、庭先の小舟を見た方がずっとインパクトが大きかった。

# by 33orion33 | 2015-05-21 20:43